2009年04月21日
新企画[tennis×culture]スタート
日頃色んなテニス系ブログをチェックしてますが、その中のひとつ、横浜テニス研究所は各地の試合レポや選手についてにのみならず、テニスやスポーツにまつわる雑学などについて色々書かれていて、いつも楽しませていただいております。
その中で、こちらで少し前から始まった企画「テニス本千冊行」は、観戦歴が浅く知識も乏しい且つ極端な文化脳を持つ私の興味を一際引くもので、そこで取り上げられている小説の内容が私の好きそうなものだったので、早速購入し、週末の間に読み上げました。
そのレビューは以下に書くとしまして、同じことを追っかけでやるのも単なるパクりだし、私の専門は映画であったりするので、それを映画に置き換えて、以後、色んなテニス映画を紹介していこうと思います。
題して「tennis×culture企画」です。
上のブログでは「テニス小説の定義」とは、
①テニスが主人公のキャラクターや物語のモチーフと分かちがたく結びついている。
②競技としてのテニスやプレーヤーの心技体が、それなりの紙幅を割いて描写されている。
③作品に出てくるテニスを他の何かに置き替えることができない。 (以上、「横浜テニス研究所」より引用)
…とされています。
基本的に私もこちらに賛成です。
が、小説に限らず漫画や映画などで、キャラクターを魅力的風に見せる目的で、登場人物はおそらく作者がやったことないと思われる珍しい趣味や競技をやってたりすることがあります。
この「作者がやったことない」ゆえの、全く深みに欠ける(もしくは間違った)描写を「やってる」当人が見ると実にげんなりするものです・・・。
実際、高校時代弓道部だった私も、それを何度か経験してきました。
キャラに色を付けたいのは分かるけど、間違ったリアリティしか出せないぐらいならよっぽどない方がマシだ、と・・・。
ということで、つまり、
④テニスについての描写が、実際の競技者をある程度満足させることができる。
を付け加えたいと思います。
これはもちろん、小説に限らず、映画にも置き換えることができます。
しかしながら、映画でテニスのシーンが出るとはいえ、それを実際に演じる役者全てにテニスを上手くやれというのはなかなか無理な話です。
作品中のとあるシーンにおいて、部分的にその道のプロを使ったり、音楽映画であれば実際聞こえてくる音はプロによる演奏だったりするのは当然のことで、それは演出として当然の方法であると考えます。
(中には、実際に競技経験のある役者しか使わない、というようなスポーツ映画もありますが、これは監督の相当のこだわりによるもので、例外と考えるべきです)
つまり、テニス映画に置き換えた場合の定義としては、
⑤プレイシーンの一部は役者本人ではない/ボールの一部はCGであることを容認する。
という許容事項が加わり、以上5つが私なりの「テニス映画」の定義となります。
頑張ってリサーチしたところ、テニス濃度は不明ながら、20本強の映画が見つかりました。今後、地道に観ていこうかと思います。
最後に、小説『熱風』の感想です。
----------------------------------------
『熱風』福田隆浩/著(講談社)
聴覚障害を持つ中学2年生の孝司と、難治性皮膚疾患・汎発型円形脱毛症という病気を抱える中山。それぞれ深刻なコンプレックスを抱えながら、人一倍頑固で負けず嫌いなふたりがテニスでダブルスを組むことになり、反目しながら、テニスを通じてお互いを知り合い、来る試合に向けて鍛錬していくという児童小説。
久しく児童小説を読んでいなかったので、字が大きいとか振り仮名がふってあるとかそういえばこんなだったなぁ・・・というのと、大人向けの小説と比べて、性格の多面性をつなぐ描写がいささか大雑把な気はするが、それでも、全てを忘れさせてくれるテニスに賭けるふたりの想いを実に丹念に描いている。
耳が聴こえない苦労は私にはもちろん分からないのだが、髪の毛が抜け落ちてしまうという、思春期という一番繊細な時期におそらくこれほど恥ずかしいことはないよという難病を抱える中山、それゆえ彼の日常は余りに暗く、ものすごく胸が痛くなってきた。孝司は友達がいるだけまだいいよ、と・・・。
とにかく熱く、養護学校の先生が書いたというだけあって、子どもたちの複雑な心情が上っ面でないところが作品の質をより上げている。
競技としてのテニスをアイコン的にではなく、練習や試合風景をものすごく丁寧に描いていて、これぞテニス小説の王道と言うにふさわしい作品です。
上の①~③をしっかり満たしているどころか、かなり具体的な記述も多いので、テニスのフォームとかの意味がもっと分かったら、光景が浮かんできて、より楽しめただろうになぁ、と思います。
その中で、こちらで少し前から始まった企画「テニス本千冊行」は、観戦歴が浅く知識も乏しい且つ極端な文化脳を持つ私の興味を一際引くもので、そこで取り上げられている小説の内容が私の好きそうなものだったので、早速購入し、週末の間に読み上げました。
そのレビューは以下に書くとしまして、同じことを追っかけでやるのも単なるパクりだし、私の専門は映画であったりするので、それを映画に置き換えて、以後、色んなテニス映画を紹介していこうと思います。
題して「tennis×culture企画」です。
上のブログでは「テニス小説の定義」とは、
①テニスが主人公のキャラクターや物語のモチーフと分かちがたく結びついている。
②競技としてのテニスやプレーヤーの心技体が、それなりの紙幅を割いて描写されている。
③作品に出てくるテニスを他の何かに置き替えることができない。 (以上、「横浜テニス研究所」より引用)
…とされています。
基本的に私もこちらに賛成です。
が、小説に限らず漫画や映画などで、キャラクターを魅力的風に見せる目的で、登場人物はおそらく作者がやったことないと思われる珍しい趣味や競技をやってたりすることがあります。
この「作者がやったことない」ゆえの、全く深みに欠ける(もしくは間違った)描写を「やってる」当人が見ると実にげんなりするものです・・・。
実際、高校時代弓道部だった私も、それを何度か経験してきました。
キャラに色を付けたいのは分かるけど、間違ったリアリティしか出せないぐらいならよっぽどない方がマシだ、と・・・。
ということで、つまり、
④テニスについての描写が、実際の競技者をある程度満足させることができる。
を付け加えたいと思います。
これはもちろん、小説に限らず、映画にも置き換えることができます。
しかしながら、映画でテニスのシーンが出るとはいえ、それを実際に演じる役者全てにテニスを上手くやれというのはなかなか無理な話です。
作品中のとあるシーンにおいて、部分的にその道のプロを使ったり、音楽映画であれば実際聞こえてくる音はプロによる演奏だったりするのは当然のことで、それは演出として当然の方法であると考えます。
(中には、実際に競技経験のある役者しか使わない、というようなスポーツ映画もありますが、これは監督の相当のこだわりによるもので、例外と考えるべきです)
つまり、テニス映画に置き換えた場合の定義としては、
⑤プレイシーンの一部は役者本人ではない/ボールの一部はCGであることを容認する。
という許容事項が加わり、以上5つが私なりの「テニス映画」の定義となります。
頑張ってリサーチしたところ、テニス濃度は不明ながら、20本強の映画が見つかりました。今後、地道に観ていこうかと思います。
最後に、小説『熱風』の感想です。
----------------------------------------
『熱風』福田隆浩/著(講談社)
聴覚障害を持つ中学2年生の孝司と、難治性皮膚疾患・汎発型円形脱毛症という病気を抱える中山。それぞれ深刻なコンプレックスを抱えながら、人一倍頑固で負けず嫌いなふたりがテニスでダブルスを組むことになり、反目しながら、テニスを通じてお互いを知り合い、来る試合に向けて鍛錬していくという児童小説。
久しく児童小説を読んでいなかったので、字が大きいとか振り仮名がふってあるとかそういえばこんなだったなぁ・・・というのと、大人向けの小説と比べて、性格の多面性をつなぐ描写がいささか大雑把な気はするが、それでも、全てを忘れさせてくれるテニスに賭けるふたりの想いを実に丹念に描いている。
耳が聴こえない苦労は私にはもちろん分からないのだが、髪の毛が抜け落ちてしまうという、思春期という一番繊細な時期におそらくこれほど恥ずかしいことはないよという難病を抱える中山、それゆえ彼の日常は余りに暗く、ものすごく胸が痛くなってきた。孝司は友達がいるだけまだいいよ、と・・・。
とにかく熱く、養護学校の先生が書いたというだけあって、子どもたちの複雑な心情が上っ面でないところが作品の質をより上げている。
競技としてのテニスをアイコン的にではなく、練習や試合風景をものすごく丁寧に描いていて、これぞテニス小説の王道と言うにふさわしい作品です。
上の①~③をしっかり満たしているどころか、かなり具体的な記述も多いので、テニスのフォームとかの意味がもっと分かったら、光景が浮かんできて、より楽しめただろうになぁ、と思います。
確かにTVドラマは危険な香りがしますね・・・(笑)
上にアップした『ウィンブルドン』、入力画面に直接打ち込みながら記事を作っていたら、アップする時にはすでにタイムアウトしてしまっていて、悲惨な目に遭いました・・・(T T
古い作品はレンタルもなかなかないみたいなので、地道に捜索しつつ、ぼちぼちペースで紹介して行こうと思います。